2010年6月15日火曜日

ノルウェイの森

約6カ月ぶりにノルウェイの森を読み返した。
この本は一種の不思議な魔力と吸引力がある。
私が一種の不安定な、何かを求めている時期が続くとき、ふと「ノルウェイの森」
を手に取っている自分がいる。”私”が読みたいと思うより先に、私の中の
何かがこの本を求めていて気付けばこの本をまた手にしている、という具合に。
きっとこの本は共鳴のような空間に私を居させてくれるのだろう。


数か月に一回の程度で読み返すたびにこの本自体が明らかになっていくような
不思議な感覚を味わう。

この本が出版された当時はベストセラーになり、文学批評家たちはそろって村上
春樹を叩いた。(ごく少数支持者を除いて)その批評の内容も「自殺する人が多すぎる」
といったことや「性描写が多すぎる」こと、「僕」の奥行きのなさ、終わり方の曖昧さ
に対する作家の無責任性など。一部のフェミニストを自称する作家や学者は直子や緑
といった女性の描写の仕方を叩いた。以前に読んだ批評文では村上春樹自身がカバーの色を
赤と緑(そして帯は反対に緑と赤)にしてほしいと注文したことを「クリスマスを意識
して売り上げを伸ばそうとしている」という何とも馬鹿馬鹿しい事が書かれていた。




これらの批評はどれも「ノルウェイの森」そのものから大きくずれてしまっているし
彼ら自身がこの本を自分自身の重さを持って受け止められなかった限界を表して
しまっているように思う。「ノルウェイの森」に登場する緑や玲子さんといった女性
自身とかつ「僕」との関係性は一部のフェミニストが主張するよりもはるかにラディカルだ。
赤や緑といった色は「死と生」を表している色とも捉える事が出来るし、赤の表紙に緑の
帯、そして下巻では緑の表紙に赤の帯という何とも大胆な配色は小説の中で語られる
「死は生の一部である」ということをカバーそのものをもって暗示しているのではないか。


批評そのものも見当はずれなちぐはぐなものが多かった気がするけれど、「100パーセントの
純愛小説」というフレーズに見られるように、「恋愛小説」として捉えられてこの本がブーム
になってしまったことが「ノルウェイの森」のぎゅっと濃縮された魅力を散在させる結果になって
しまったんだろうと思う。この本はきっとブームなどになるべきではなく、本屋の隅で存在して
いるような、人が何かを求めているふとした時に偶然手にとって一気に引き込まれていくような、
そんなひっそりとだけど長く長く朽ちない本であったべきなんだろう。


本当に死の淵までいったような人や”私自身”というものや”生きている”ということ自体に
ぐらぐら揺れたこともない人たちにはきっとこの本は響かない。(私もそんなところまでいった
ことはないけれども!)とにかく生き続けなければという思いや、それと同時に自分の肌の外に
存在する者たちとどう関係して生きていくかということに苛まされることもない人達にとっては
この小説は「恋愛小説」だ。それはそれでいいんだろう。だけどそれはきっと、この本がひっそり
と含んでいるだけど本当に発したいメッセージとは違うと思ってしまう。



この小説を読むたびに私は自分自身をあるていど主人公に重ねてしまう。きっと色んな中途半端
さや何かを求めている所、だけど未だ地に足がついていないところ等だろう。

「僕」は不思議と生死の間でさ迷っているような、だけど確実に死の方向へ向かっている人たちを
ひきつける。これはきっと、やさしく死を肯定するような、そしてそれ以上に何かを常に切に
求めているが故にその渇き・求めが小さな渦巻きのようになり、死の近くにいる人たち・どうしても
そちらに行かざるを得ない人たちを引きつけ、彼らを肯定し、一定期間癒す力を持っている。

それでもどうしようもないことに、きずき・直子・はつみさんといった死の方向へ向かっている人達
を違う方向へ向かせてつれていくことはほぼ不可能なのだろう。少なくとも、20歳の「大人」に
なりきれていない「僕」には不可能だったのだ。彼の出来ることはただ一時的に彼らの避難所に
なることだった。そしてその結果、彼らが少しだけ以前よりも穏やかな気持ちで死へ向かっただろう
とともに、「僕」自身も生き続けるために新しい、そして全身にのしかかる課題:責任を受け止める
ことになる。

最後のシーンで「僕」は今どこにいるのだ、と自分の立ち位置も未だ分かっていなければ
どのように生きていけばいいのかも分かっていない。彼がしっかりと地に足をつけ歩きだすには
まだまだ時間がかかるだろうし、同時にその状態を抜け出す「きっかけ」や「出来事」を通る
必要がありそうだ。



だけど、何よりも大きなことは、泣きたくなるほど大きなことは、彼が「生き続ける」という
選択をしたことだ。死の方向へ方向を決めるのではなく、とにかく「生きる」という方向へ
目をやったことだ。そして生きていくうえでの代償として「責任」を取ると自覚したことだ。
彼の人生はこれからまた新しく始まるんだろう。もちろん数多い苦しみが待ち受けている
のだろうけれども。


そして途中で死んでいった者たち。直子やきずき、はつみさん。彼らを責めることはできないし
その必要も全くない。彼らは苦しみの中でも死の瞬間まで生きたのだし、それが彼らの人生
だったのだ。その一方、生を選んだもの、あるいは生を選ぶように色んな助けが自然と現れ
それらに答えた者は生き続けるべきなのだ。死者という声なき者の存在を背負って生き続け
ることを迫られている。

「ノルウェイの森」の最後に語られること

”我々は生きていたし、生き続けることだけを考えなければならなかったのだ”


この小説はきっと10代後半や20代の途中で死んでいった者たちへのレクイエムであると
同時に、だけどそれ以上に生き続ける者・生き続けることを選んだ者に対して背中を押す
小説だ。心の奥にひっそりと存在するような、心地の良い距離で存在する小説だ。


私はきっとある程度年を取るまで、この小説を時々読み返すだろう。大した困難を経験
したわけではないけれど、「生き続ける」ことを選んだ者として。

1 件のコメント:

  1. こんにちは。たまたま「SOAS」と「宗教学」のキーワード検索で辿り着いた者です。(9月よりSOASにて宗教学の修士課程を始める予定でおります)とても興味深く、エントリーを幾つか読ませていただきました。今は都内で宗教学を勉強されているのですか?これからも頑張ってください:)

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