2010年5月15日土曜日

2日目の美術館

今日は昨日と打って変ってTate BritainのChris Ofiliの展覧会へ。
今まで彼の広告を駅等で見かけるたびにあまりに異質であまり足が向かなかった。
なのになぜか、先日映画館で知り合ったメキシコ出身の女の人がお勧めと言ってパンフレットを
くれたことを思い出した。そして昨日あまりに対象や線引きの明確なものばかりを目に入れたので
今日は思いっきり違うものを見ようと思い、足を踏み入れることに。

Chris Ofiliはナイジェリアの血を引き継ぐイギリス生まれのアーティスト。彼の作品はほぼすべて
アフロアフリカンが主題になっている。作品の年代に合わされて部屋が8つほどに分かれていたけれど、
その変遷にも驚くと同時に部屋に入ってすぐ、あまりの強烈さに目が奪われた。

その中のいくつかの作品。


これはよく宣伝で見かけたもの








Virgin Mary
細部をみればみるほどびっくりしたと同時に納得。

これは黒人のMaryとポルノグラフティの組み合わせからなっている絵。恐らくChrisが言いたかったことは美と醜いものを一つの世界の中でいかに統合し、そこに美を得るかということだったんだろうけれど、(そのポルノ写真を醜いものとしてしまっていいのかという点は置いておいて)、Virgin Maryは聖なる存在であると同時に娼婦性を伴ってる。というよりも娼婦性は聖なるものを特徴づける時に必要なものだと言うことも絵はまた表わしているんじゃないかと思った。つまり、常に自身が”開かれた存在”であること。自身が”通過させられる存在”であること。これ村上春樹が言ってることや、遠藤周作が「女の一生」で描いたこととも共通するんじゃないかな。





タイトルshe

この絵もなぜか気に行った。この絵に見られるように、彼の作品はどれも円環的だ。直線ではなく、輪を描く。この作品をみていて、外なる繋がりと内なる繋がり(遺伝もこちらに入るだろう)の両者が存在していて、そしてその内なる繋がり自体も実は通り抜けるものなんじゃないかと思ったり。内と外は1次元で右と左で存在しているわけではなく、2次元以上の中で存在するもの、そしてそれは直線ではなく円環状でしかありえないもの。”還っていく”ということ。





そしてthird eye

この眼を身体に属するものとして見立てた時、この眼は頭部の一部分についているのではなく、性器の辺りあるいはもう少し上の内臓辺りを指しているのかなぁと思ったり。ちなみにこの「内臓」と思った時、つい最近読んだ三木成夫さんの「胎児の世界」を思い出した。彼は人間の中心は脳ではなく、内臓だと言っていたはず。確か。




そして私が一番気に行った最後の部屋で。この部屋は全体的に女性性・Healer・闇をよく表していた。これも、彼がナイジェリアンの血を受け継ぎ、かつジンバブエ等に滞在していたからこそ描けるものなんだろう。これらのイギリスからしたら全く別の世界に属するような光景をクリス自身は"i wonder if the biblical was alwaysa way to get to the spiritual, for me. when you live somewhere like this, you just become aware of different types of energies. the place itself has an undeniable energy. the force of nature is overwhelming."とのこと。



そしてもう2枚。

写真が小さすぎて何なのか全く分からないけれど、どちらも女性性をhealerであるのと同時に、もっとおどろおどろしいもの、全てを引き込むものとして2面性を描いていると思った。どの絵も比較的暗い色で描かれているけれど、このおどろおどろしさを出すには明るい色だけでは決して描けないんだろう。他にもdance in shadowをいった絵を見ていて、一対の男性・女性では必ず男性の方が女性に飲み込まれてしまうんだろうと思ったり。もちろんこれは女性性についてであって女性についてではないけれども、現実での一夫多妻制は何かつながりがあるんじゃないかとも思う。


そして他の一枚の、”おどろおどろしい”(つまり幾重にも重なる女性性)岩の頂点に立つ一人の人間(私には男性に見えたのだけど)の絵を見ていて、これはある意味僧を表しているとも見れるんじゃないかと思った。つまり、これらのおどろおどろしいものから逃れようとするならば、境界を常に保ち、自ら決して近づかないこと。近づいてとらわれたらそのカオスの中へ入り込み、抜け出すのは困難極まりないことになる。これはシンボルとしての門にも似てるんじゃないだろうか。一度くぐるとその門は閉ざされる。そしてその門から再び出ようとするには試練が必要とされるということ。「千と千尋」のように。だからこそ、そのカオスと距離を保っておくこと。それが頂点に立つ最も近い道(にみえる)なんだろう。しかし皮肉なことに、その頂点に立ったと思っても、それを支えている、自分自身が足の踏み場にしているのはおどろどろしいものだということ。これは”近代”にも関係することだろう。彼の絵からは大分ずれてしまったけれど。



展示を観終わって後、彼のドキュメンタリーをみていると、彼自身の関心が美と醜を明確に分けたうえでいかに統合するかという考えから、それらの間の境界がもっと曖昧になっていったという発言があった。線引きであらわされるバランスが薄れていき、代わりに「異界性」を含んだバランスが、それだけで世界を含んだバランスが生まれてくること、そしてその変遷。この異界性を含むという彼の考えかつ手法は現代がどのようなものを求めているのかということを良く示してる、時代がどのようなものなのかを反映しているんじゃないだろうか。


昨日・今日はロンドン巡り。合間に本も読みながら。明日は学生の本分に戻って勉強中心の日にしよう。
雨がしとしと降る中で勉強ってのもいいけれど、やっぱり晴れたらいいなぁと思いながら。

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