2010年5月18日火曜日

しん、とする夜に

ふと智恵子抄を思い出した夜。その中の「深夜の雪」の一文。
「ただ二人手をとつて 声の無い此の世の中の深い心に耳を傾け 流れわたる時間の流れをみつめ」
という文章。何だかすごくシンとして情景が目の前に広がる。


そしてこの文を読んで同時に思い浮かべたのがなぜか中原中也のある詩の最後の文。
「ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はないのだ。」


二つの詩に共通点はないだろう。前者は恋人と二人できっと一つの静かな「真実」を感じている時。
後者は自身が目指す何かへ向かってがむしゃらに働きかけ、ふと帰路において「自分」を感じているとき。
これも違った形の「真実」だ。




でも両者にはどちらも何かしんとした、少しの間持続する、ある流れが薫る。
私はそんな「一瞬」がたまらなく好きだ。なぜか泣きたくなるほど。
きっとそれは、私が求めているものがこの二つの文に現わされてるからだろう。



私にはまだ彼方がうっすらとしか見えない。霞がかっているような。
「そこ」へ辿り着く、あるいは還っていくにはまだまだの年月と苦労と空回りが必要とされているはず。
「人並みの幸福」はなくてもともと。もし与れば僥倖以外の何物でもない。
「私」へ還る路に沿うものとしてそんなものを期待する私も存在するけれど。
時々、周りに何も存在していないような気がしても、自分が全く分からなくなっても、
何のやる気が起こらなくなっても、更に深く深く下りていくしかない。
上へも登りたい気持ちもある。でもやっぱりそれよりも下へ。

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