2010年5月18日火曜日

カンガと地図と権力と空間

一昨日は大英博物館のアフリカのセクションへ。
そして昨日は大英図書館の企画展 magnificient mapsへ。

この二つを通して知ったことを簡単にまとめておきたい。
大英博物館では結婚のときに用いる衣装の意味やその色に込められている意味
などもすごく面白かったんだけど、ここではカンガについて。


約年前にケニアに行った時は単に可愛い・便利という理由でカンガが気に入った。
部屋をシェアしたケニア人の女の子が部屋着としてカンガを身にまとっている様子が
思い浮かんでくる。すっごく可愛かった!
でもなぜか、そのカンガにはどういう意味があるのかを考えたことがなかった。
何で私はそんな当たり前な問いを立てずに単にカンガを「東アフリカの文化」として
受け入れたんだろう。大英博物館でのカンガの展示やその歴史は私が勝手に作り上げていた
カンガの「イメージ」をもう一度考え直す機会をくれた。


まず第一に、カンガはそのコミュニティにおいて社会的な意味合いがあること。特に
女性にとって。だからこそどのカンガにも意味合いが本来含まれていて、それは
社会的なことから政治的な主張からあるいは人生哲学のようなものなど様々。

例をあげると「マンゴーの実がなったよ」という知らせをマンゴーの樹が描かれている
カンガを通して伝えたり、「お前は何も知らない」という格言(あるいは誰かにあてた
悪口や陰口?)であったり、面白かったのは猫と家の絵を通して「あなたがドアを開けっ放し
にしたから猫がドーナツを食べていってしまった」というメッセージなど。




普段直接的には不満や主張が言えない社会構造であっても、きっと女たちはこうして
日常生活を通して、自分の身につけるものを通して、良い具合にメッセージを伝えあっていた
んだろう。最も確実な内在化!



服の持つ意味とその歴史の変遷も本当に面白い。もっと詳しく知りたい。
機能だけではなく、社会的な意味合い。
そういえば服に関して、ロシアの博物館で見たエカチェリーナ2世の灰色のドレスは100の国章の刺繍
がされてあって、何とも言えない圧迫感と威厳と迫力を醸し出していた。「服」の奥深さ。




そして、そんなカンガは当然東アフリカが生み出したものだとばかり持っていたけれど、
本当は15世紀にポルトガルが四角のハンカチを貿易を通して持ち込んだことがことの発端とのこと。
そして現在では現地でカンガが生産されているけれど、当時はポルトガルやイギリス、あるいは
日本でプリントされていたとのこと。「現地」本来のものと思っていたものでも、
本当はこうして植民地支配や貿易の影響を受けているのだろう。それだけ植民地支配は根深い。
宗主国により作り出された型の中でのみ、そして彼らによってもってこられたものによってのも
自分自身を表現できるということ。あるいは宗主国ー植民地の対立構造でないように見えるものでも
やはり関係してしまっていること。その中でその状況に甘んじるのではなく、現実を知った上で
その現実を逆手に取り、そのぎりぎりの境界まで戦うこと。そして結果的に境界を彼方へ広げること。





そして貿易や宗主国などについて考えているときにふと行ってみた大英図書館。確か今地図に
ついての展覧があったな、BBCでもやってたな、という軽い気持ちで。
地図はまぎれもなく権力や国家と結びついている。時にはそれは見る者に驚嘆や服従を要求し、
時には支配欲を満たす機能を果たす。外と内の境界を明確に引き、どちらに属すかによって
見方が全くことなるもの。それも地図の一面だろう。
今回の展示はヨーロッパの世界への視点。つまりヨーロッパの植民地への視点。
地図を所有する者としての西ヨーロッパと、その所有物としての非ー西ヨーロッパ。
「私」ももちろん後者に属する。


最初から最後の部屋へ至るまで続いた何となくの居心地の悪さ。そして一枚の地図と対峙するごとに
増す疲労感。それはきっと私が「みられる側」に属することを感じてしまうからだ。
far eastからやってきた者として。そして決して地図に「沿う」者、地図によってアイデンティティを
確認できる者ではなく、最後まで地図に「対決」する側の人間だからなんだろう。
地図を見ながらエドワード・サイードの「オリエンタリズム」を思い出していたのは言うまでもない。




そして些細なことだけど、同じ場所で同じものを見ていても見る視線の先が違ったら
同じ空間は共有できないんだとふと思った出来事があった。
目の前に広がるヨーロッパを中心にした世界地図。(つまり、植民地先を大きく誇張しているもの)
いかにもヨーロッパ至上主義でありながら、同時に装飾がなされていて西洋的美を感じられる
ものだった。その前に立つ私にとって最初に目につくものはいかに宗主国ー植民地の関係性
が描かれているのか、そして日本はどのように位置しているのか、ということだった。その関連
としての装飾美。対して横にいた恐らく白人イギリス人であろう人はいかに地図がアートとして
描かれているかに感嘆の声をあげていた。

同じ場所で同じものを見ているはずなのに、その地図をまず受け入れるか受け入れないかの根本的な
立ち位置の違いから存在を置く空間が異なっていた瞬間。違う方向からやって来て、一つの地図の前で
一瞬の空間を共有し、そしてまた違う方向へ向かうこと。そして同じ瞬間を共有しているということも
単なる幻想であること。同じ場所に立ちながら同じものへ視線を向けながら同じ空間の中に存在しないこと。

こんなことを数え切れないほど繰り返してきたんだろうなあと思いながら、それでも不思議と
寂しい気持ちはしなかったロンドンの午後。

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