2010年5月15日土曜日

繋がりの日

昨日は自分の考えていたことが目の前の現象の中で次々と現れた日。博物館巡りと街歩きをしている中で
ストーリー性をもって私に向かってきた。

最初はフローレンス・ナイチンゲール博物館へ向かう中でレヴィナスの「存在の彼方へ」の
冒頭へ現れたマクベスに関しての言及。そして道に迷う中で見つけた古本屋さん。そこで
目に付いた本”macbeth”

ちなみに、ちょうど1週間ほど前に身に行った劇macbeth。舞台の設定も観客をいかに引き込むか
良く計算されたものだと思ったけれど、劇の内容自体で心に残ったこと。一見男世界でありながら
運命を分ける選択を男たちが迫られる時、あるいはその結果に苦しむ時などにいつも背後に現れる
3人の魔女。(原作は今から読むのでその違いも楽しみ!)そしてマクベスとその妻の死への向かい方
の違い。当事者であるがゆえに運命を全身で担わなければならないマクベスと、当事者にはなりきれずに
”支え”たサブであった中途半端さゆえに狂気へと向かわざるをえなかったその妻。
そして細部ではあるけれども、自身が王になって後の饗宴の場で現れる王の亡霊によって食べること
を防がれかつ眠られなくなるマクベス。生きてく上で最も原始的かつ必要とされる食べることと眠ること。
その二つが出来なくなるということがどういうことなのかを良く示していると思う。

マクベスの次はテムズ川沿いを歩いていたときに考えていた対称性と美について。私はテムズ川の近くを
歩いているといつも私一人が違う世界から来たような、あるいは私の目の前に広がる世界は全く違う、
そこだけで完成されたもののように感じる。川沿いに”全て”そろってしまっているのだ。ほどよく大きく
威厳さを感じさせる空間のなかで存在する対称性によって存在し続ける建物や像など。その中で異物として
私。

川沿いや観光客などで人通りが多い大通りを歩いているときに感じる別のことは距離からみられるもの
について。人が込み合った道で人の肩がぶつかりそうになる時、どの程度避けるかという瞬時の判断は
目の前の人間がどのカテゴリーに属するかという一瞬の認識によってくる。たとえば”アジア人の女の子”
と”白人の大人”に対して自分から避ける距離と相手から避けるように求める距離は恐らく違う。何ミリ
の差ではあっても。そしてそれが完全に意識のレベルで行われていないことにその根の深さを感じる。
もちろん私も含め。



テート・モダンの企画展はVan Doesburgの作品について。
ちょうど美と対称性、そして東西での その認識の違いについて考えながら行きつくと、
彼は対称性というものを色んな対象を使い極めた人だった。音楽のメロディや建築とのミックス。
一時期にはダダイズムに傾倒したり。その最中の文章で「プロレタリアートの美術はその特定の階級
のみを対象とするが、ダダイストは全てのものを含む」と。これはダダイズムを支えたアーティスト
の一般的な見解とは少し異なるみたいだけども。
そしてダダイズムから中原中也を思い出したり。






このステンドグラスを見たとき一見統一性が分からなかったけれど、実は中心から四方に対して
互いにreflection, lotationしているとのこと。一見脈絡がうまくはぐらかされているものが
実は統一的な美・一貫性を保っている。でも色や配置を変えることにょってこれほど一見ちぐはぐ
なものに見えることがすごく面白かった。本来はバランスを保った美が、色によって目隠しされて
いること。そして美を認識するのも視覚であり、その一見したちぐはぐさを認識するのも視覚であること。
他にも彼の作品は独創的であると同時にものすごく”西洋的”であったと思う。これでもか、ってほどに。



フローレンス・ナイチンゲール博物館では彼女の一生と同時に看護がどのように発達したのかを
クリミア戦争以後とからめて説明してあった。私がすごく納得したのは、彼女がギリシャ語・ラテン語
を含む数カ国語を操り宗教にも深く感心があったということ。聖書を原書で読むくらいに。その上で
理科系のことにも興味を持ち、大書「看護覚え書」もその統計学を存分に生かしたものであること。
そして一つの試練として、戦地で看護に従事していたときにいかに軍医と上手く関わるか、そして
いかに他のナースを統制するかということを学び生かすという時を通り抜けたこと。上流から中流の
家庭に育った当時の女性としてそれはどれだけ難しいことだったんだろう。
17歳のときに神の声を聴いてからの彼女の一生はなんてストーリー性のあるものなんだろうと感じた。
もちろんどの人にもその人だけのストーリーがあって、その全体は本人しか知り得ないんだろうけども。


フローレンス・ナイチンゲール博物館や、ジュネーヴで訪れた赤十字博物館、カルカッタでのマザー・テレサの寺院、あるいは何か自身の人生をかけて”他人”に貢献した人の博物館を訪れると私は必ず落ち着く。音楽家の人生にも強く魅かれるのに、美術館や音楽家の博物館を訪れる時に感じる私とあなたの間の”対面”という感覚から、何か自分のあこがれの人に、ある意味同類の人に会いに行く感覚になる。恐れ多いことだけども。訪れるたびに私もこんな風に生きたい、私には何の術があるのか、と自問する頻度が多く強くなる。どんな人も色んなものを負っている中で、そのことを強く感じる人間はどう生きればいいのか。私にはまだ具体的な術が見つかっていない。見つかっている気もするけれど、まだはっきりとした形となって迫ってこない、と言った方が正しいのかも。こういった博物館は私を私の原点に、私の中のもっともカオス的なものへ還らせる。いつか、があるならば、50年後に形になってればそれ以上のことはないだろう。



wikipedia Van Doesburg http://en.wikipedia.org/wiki/Theo_van_Doesburg
wikipedia Dada http://en.wikipedia.org/wiki/Dada

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