2010年5月21日金曜日

あい

私の大好きなあるブログで出会った谷川俊太郎さんの詩「あい」
この詩はなんだか本当にすっと私の中に入ってくる。
過去から未来への流れ、そしていのちをかけて生きること





「あい」        谷川俊太郎

あい 口で言うのは簡単だ
愛 文字で書くのも難しくない

あい 気持ちは誰でも知っている
愛 悲しいくらい好きになること

あい いつでもそばにいたいこと
愛 いつまでも生きていてほしいと願うこと

あい それは愛という言葉ではない
愛 それは気持ちだけでもない

あい はるかな過去を忘れないこと
愛 見えない未来を信じること

あい くりかえしくりかえし考えること
愛 いのちをかけて生きること





この世界は美しい。
花が咲き、ミツバチが蜜を吸いにやってきて、そしてめぐりめぐる。
花があって私がある。受け継いだものを更なるものへ引き渡す。より美しい形にして。
憎しみや恐怖や嫉妬などがうずまくなかで、それ以上にもっと根本的な共感や
いのちそのものが存在する。そしてそんな暖かい温度のあるもので世界はまわりつづける。




私は美しいものを多く見させてもらった。感じさせてもらった。もったいないほどに。
不当なほどに。私はこの世界が好きだ。数え切れない哀しみが存在するこの世界で
それでもやっぱりこの世界は美しい。森羅万象の中で、全てのものがいのちをもって
存在する。風の匂い・木々の匂い・犬の喜び哀しみ・ハトの一日・蝉の7日間・水・人間・
色んな顔を持つ海、遍在するいのち。そして風の匂いも季節によって変わり、
木々の葉も季節によって輪廻を繰り返す。全てが網目のように絡まりながら相互に存在している世界。





私は私のために多くのものを見せてもらった。「私自身」は満足だ。
でも、最も愛されるべき人に愛されない人や今日の食べ物もない人や色んな奴隷として
生きている女の子や男の子、ストリートチルドレンや多くの未来を持てないであろう人たち、
人間の餌食になっている犬や猫、理由もなく殺される動物、オイルまみれの鳥たち、
氷が融け海に流されるクマ、象牙や皮のためにころされるゾウやキツネやウサギ、
抵抗のしようのないいのち達。




私は彼らの前にしゃんと立つことができない。謝ることしかできない。
うろたえ罪悪感に苦しむことしかできない。
私は私が得たものをどんな風に次へ繋げられるのか、どうして苦しみや哀しみを
癒すことができるのか、まだ明確にはわからない。(いや、きっと分かっているのかもしれない。
それに伴う困難や覚悟の前で躊躇していると言った方が正しいのかもしれない)
それでも、「愛したい」と思う。私が存在するこの世界を。私が不当にも被らなかった
苦しみや哀しみを。被らなかった分、きっと私は償いたいんだろう。






何か大きな買い物をするたびに、女の子らしい喜びとともに付きまとっていた後ろめたさ
や大きな出費をするたびに付きまとっていた何か違うという感覚。私はずっと知っていたはずだ。
どんなきれいなかばんも靴も服も化粧品も身を飾るものはとってもとっても儚いと。
きれいなすっきりとした格好をして街を歩き、素敵なカフェでお茶をし、数万の買い物を
すること。私がそれをある意味好きなことは私自身否定できない。今の時点では。





それでも、私は思う。色んな哀しみを愛することができる具体的な「手段」を手に入れたとき、
具体的に働きかけることができるとき、私は色んな「物質」を今よりももっと惜しげなく手放すだろう。
素敵な家も高価な服も名誉もきっといらない。次の世界へもって行けないものは全て放り出したい。
そしてその先に待ってるであろう、私による私の解放。透明になること。通過させる存在になること。






多くの「あい」から生まれた私として更に多くの「あい」を生み出したい。
くりかえしくりかえし考えたい。私は何ができるのかと。
私のこの一生はどんな風に用いられるべきかと。誰に捧げたいのかはもう分かっている。
運命から逃げたくない。過去に得たものを未来へ。



私は未来を信じたい。そして本当の未来とはきっと「あい」によってもたらされるべきものなんだ。

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